ニュースレターNo.15/1999年12月発行
1.巻頭言 集中と分散 English Page
JPNIC理事 野村純一
最近はじっくり本を読む時間がなかなかとれませんが、それでも気の向いたときに買っておいて出張の合間などに楽しんでいます。昔から文学的な香りの高いものは苦手で推理小説やサイエンスフィクション(SF)さらに社会・歴史関係の本などが主なジャンルです。とくにSFは好きでEEスミスのスペースオペラからアーサーCクラークやアイザックアシモフといった巨匠、さらにはオースンSカードなど最近の作者も読みました。
SFは普通の常識では考えにくいシナリオを自由な発想で展開して見せるため、読者の想像力を刺激してとても面白いというのが愛好者一般の評価でしょうか。しかし、私の読んだ作品の中にはそれ以上の示唆に富んだ良いものがあります。たとえば、アシモフの「永遠の終わり」では時間旅行を司る機関が人工的に人類の未来を調整し最大多数の幸福を追求しているけれども、未来を知ることができるというのは未知のものに挑戦する意欲を減退させ結局人類の衰退を招くという考え方が強く打ち出されています。
私がとくに印象に深く思ったのはクラークの「幼年期の終わり」という作品です。人類が異星からきた種族に助けられて進化する物語ですが、進化の方向は人間がお互いの心を共有できる力を持ちすべての人類が一つの大きな存在(全)になるというものです。人類を助けた異星人それ自身もいつかこうした進化を遂げることを夢見ていますが、その夢は決して実現することはなくひとりひとり(個)の集合体のままでいるのです。作者は「個が独自性を保持したままの集団」と「個が合一して全になった存在」を対比しているだけで両者の優劣までは明記していませんが、どうも全よりも個を大切にしたいと考えているように感じられます。
このように一般に欧米の考え方には「個性の重視」があって東洋的な「全体的調和の優先」と対照をなしています。こうしたことは両方の社会を対比してみるといろいろな側面で現れているように思われます。
たとえば日米の教育システムを見てみましょう。小中高等学校で児童生徒にどういう教育をする方針をとっているかは相当違います。日本では「すべてに同一の教育を行ない全体のレベルを上げる」のに対して米国では「ひとりひとりの興味や能力に合った教育をする」考え方が一般です。言いかえると、日本は「他人と同じことをできるようになる」ことを目指すのに比べて米国は「他人と違ったことができるようになる」ことを目標にしています。これは単に教育の場における方針のみならず家庭や一般社会を構成しているひとびと自身がそのように考えていることの反映だとも考えられます。
また、有力な大学や企業の地理的な分布を考えると日本が集中型なのに米国は分散型です。分散型の構造になるには、各地域に特色を持った産業や文化が発達し、よい人材がその産業(企業群)や地域そのものに魅力を感じて定着し、それがまた地域の発展を促すというサイクルが存在することが必要です。
もちろん日本でも各地域が独自のカラーを打ち出して産業・文化の発展を目指す努力はしていますが、人口の分布以上に産業や文化の東京への集中化傾向が進んでいます。その底流には上記のような「他と違っているよりも同じでいるほうがいい」といった気持ちがあるように思われます。
インターネットのトラヒック分布を見ると集中と分散の傾向はもっと顕著です。日本では、インターネットのトラヒックはほとんど東京に集まってきます。海外へ向いたトラヒックを差し引いてもコンテンツが東京に一極集中しているから起こる現象でしょう。米国でもトラヒックが大都市に集中するのは同じですが、日本に比べると遥かに地域ごとに分散しています。一方、世界的に見てインターネットトラヒックが米国へ集中していることは明らかでしたが、各地域への普及が進み独自のコンテンツが充実するにつれて徐々に分散化の傾向にあると思います。これは情報の受信のみならず自ら情報を発信することを重要な特徴としているインターネットでは自然な動きであり、日本のケースのほうが特異なのでしょう。
インターネットが社会のすみずみまで浸透してきていることや社会経済がいやおうなく国際的な動きに組みこまれてきていることを考えると、私たちの意識と行動をそうした環境に適合させることができるかどうかが将来を左右します。その際に、意識構造の変革とそれに基づく具体的行動の適応状況を測るには、社会的現象が「集中」から「分散」へ変化するかどうかを見ていけばいいのかもしれません。