ニュースレターNo.29/2005年3月発行
インターネット 歴史の一幕:JUNETの誕生
奈良先端科学技術大学院大学情報科学センター教授◎砂原秀樹
1982年の3月、村井純氏に出会いました。この時慶應義塾大学の4年生だった私は研究室に配属されたばかりで、研究室の最初の教育プログラムの中でUNIXやCプログラミングを教えてくれたのが先輩であった村井氏だったのです。並行してアセンブラプログラミングやハードウェア制作の演習が行われていました。これら一見関係のなさそうなことが今の日本のインターネットにつながっていきます。実は私自身は、大学ではデータフローマシンというスーパーコンピュータの仕組みに興味を持ち、その研究を行います。しかし、ここから始まる人と人との関係が、後にJUNET誕生、そして現在の日本のインターネットへとつながる大きな波となっていくのです。
研究室ではさまざまな研究が行われていましたが、その中の一つにAcknowledging Ethernetというネットワークインターフェイスがありました。これは、確認応答をEthernetレベルで送り返すことで、確実にデータを送り届ける仕組みを持たせたネットワークインターフェイスでした。当時はEthernetのハードウェアそのものも簡単に手に入る状況ではありませんでしたから、こうしたハードウェアから自作しキャンパスLANを構築しようとしていたわけです。このハードウェアを利用してシステムを構築する際に注目されたのがUNIXで、このUNIX使いとして白羽の矢を立てられたのが別の研究室にいた村井氏だったのでした。このキャンパスネットワークを構築するプロジェクトはS&Tnetプロジェクトと呼ばれ、2つの研究室で共同して進められていました。つまり、このプロジェクトが無ければ私と村井氏が出会うことはなかったかもしれません。
私は修士へ進学し、S&Tnetへも参加します。ここで村井氏とともにいくつかのプログラムを開発するのですが、その途中で時々村井氏がさまざまな便利なプログラムを持ち込みます。これらのプログラムのほとんどは今で言うOpen Sourceソフトウェアだったわけですが、当時はそのような概念も無く「USENET」というアメリカのネットワークから「怪しげ」に持ち込まれたらしいと聞き、なんとなくそーっと使っていました。「そういうネットワークがあるならどうしてうちも参加しないのだろう?」と聞いたりもしましたが、その理由を当時の私には理解できなかったと記憶しています。ただ、そういう世界に「わくわく」したことだけは確かです。
さらに月日を重ね1984年8月に村井氏が慶応を離れ東京工業大学へ移ります。しかし、村井氏との関係は切れることなく、慶応に残された村井氏のファイルを持って行ったり、村井氏が新しく導入したソフトウェアを受け取りに行ったりと、東工大と慶応の往復が繰り返されるようになりました。この移動がだんだん大変になってくるのですが、この年は翌年3月に通信の自由化を控え、雑誌にはモデムフォンの商品比較などが掲載されていました。これを見て、「こいつを使って計算機同士を接続したら面白いかな?」という話になったわけです。20万円弱で300bpsという今となっては信じられない価格と通信速度ですが、予算をひねり出し慶応と東工大を接続しました。これが1984年9月のことでした。
この接続についていろいろなところで話していたところ、東京大学(当時)の石田晴久先生が「村井君。3つ以上つながってはじめてネットワークと言うのだよ」と言われ、1984年10月に東大を接続しました。後にJUNETと呼ばれるネットワークはこうしてスタートしたのでした。
それからあっという間に参加組織数は増えていくのですが、村井氏がいたから東工大とつないだ、石田先生がいたから東大をつないだというJUNETの始まりと同じように、つなぐ先につなぎたい「人」がいたから広がっていったと言えると思います。特に前年に誕生した日本UNIXユーザ会のメンバーはその核になっていったと言えるでしょう。ネットワークは、計算機同士をつなぐだけのものではなくその後ろにいる人々をつなぎあわせるものなのです。そして、その人と人の関係こそ財産だと思います。日本のインターネットはこの「人と人の関係」を核に発展していくことになるのです。