ニュースレターNo.30/2005年7月発行
インターネット 歴史の一幕:
国境と時差を超えた新聞社サイトの構築
株式会社グローバルメディア研究所◎代表取締役 大前 純一
「朝日を批判する記事を書けと、一部の役人が息巻いてますよ」。
10年前の初夏、朝日新聞社でインターネットサービスasahi.comの開始準備をしていた私に、他社の記者らが教えてくれました。.comというドメイン名を使い、米国にサーバーを置くという計画に対して「製造業の空洞化に続く、情報産業の空洞化につながる」というご批判だったようです。
1995年夏、日本の各新聞社は一斉にインターネットサービスを開始した。前年には「ネットスケープナビゲータ」が公開され、米国では爆発的なインターネットブームが巻き起こっていました。
朝日新聞社でも、94年春ごろから社内でデジタル対応を検討する若手を中心とした勉強会が始まり、95年4月には新聞をつかさどる編集局と並列する形で電子電波メディア局を新設、情報通信関係の取材経験が長かった私が、企画開発部門の責任者となったばかりでした。
朝日新聞社の路線の特徴は、米国にも編集事務所を持つことと同時に米国にサーバーを置くことでした。
95年4月、シリコンバレーの地元紙サンノゼマーキュリーニュースとその親会社であるナイトリッダー社と、提携関係を結びました。インターネット関連の多くの企業が、シリコンバレーのベンチャー企業で、その初期段階からの情報を握っている彼らは、各企業とそれぞれの技術の動向を極めて詳細に把握していたからです。
現地の編集事務所では時差を利用して、日本時間の午前2時前に完成した翌日の朝刊紙面を元に、日本時間の午前7時前には記事情報が公開できるようにしました。
サーバーは、サンノゼマーキュリー紙のマシンルームに設置。その後登場してくるハウジングサービスのような形態です。当時は国内のISP相互の接続速度が最大毎秒1.5メガビット。一方で、各ISP事業者が米国との間で設置した回線速度は合計すると毎秒10メガビット前後あり、米国にサーバーを置いたほうが国内の利用者には快適に読み出してもらえるとの判断でした。
サンノゼの小さな貸しビルの2階の編集事務所に毎秒1.5メガビットのいわゆるT1回線を発注したら、ジーンズのつなぎのおじさんが小型トラックで登場し、1時間ほどで作業を終えて手書きの請求書を置いていきました。東京でT1回線を発注しようとしたら、背広の紳士が5、6人でやってきて何度も打ち合わせをしていた時代です。価格も半分以下。インターネットが文化として地域に溶け込んでいることを実感したものです。この地に、事務所を置き、サーバーを置き、現地の人々とともに各種のサービスを組み立てることは、世界で渡り合うことが出来るウェブビジネスを展開するには不可欠と考えました。
日本の大手企業が多数現地事務所を設置し、ネットビジネスに関する情報収集活動を徹底し、若い社員らが一人で何千万ドルもの投資をして歩くようになるのは、その直後のことです。
現在も朝日新聞社は、日本と米国にサーバー群を置き、日米双方でのインターネット編集を続けています。多くの日本企業がcomやjpなど様々なドメイン名を駆使し、世界各地のネット環境を有機的に活用しながら10年前とは比較にならない多様なサービスを提供しています。
「国」という概念をはるかに越えて発展しているネットワーク社会には、地球規模での思考が必要になってきたようです。